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清水健一郎

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日本第一号のリッツ・カールトンオープンニングメンバーであり、部署ごとに毎日実施されるラインナップと呼ばれるミーティング、常にサービスの基本精神が書かれている「クレド(credo)」カードなど、世界を代表するホスピタリティとマネジメント手法を自ら身を持って学ぶ。

リッツ・カールトンを退社後、街場の小規模飲食店に勤務、リッツで学んだノウハウを活かして店舗の立ち上げや建て直しに成功。
その後、オーナーサービスマンとして飲食店を開業。自ら経営者となる。
2013年には、これまでの経験を活かし、書籍「社会人として大切なことはすべてリッツ・カールトンで学んだ」を出版。
数々の経験を活かし、日本のお店をはんなり応援するクレドコンサルタントとして、ビジネス勉強会のファシリテイターに就任。

ご挨拶

滋賀県の田舎で、曽祖父の代から、小売業、祖父の代から飲食店、仕出し屋と、そんな商売家系で、姉と弟に挟まれ、典型的な3人兄弟の真ん中性格の長男として私は生まれ育ちました。

両親の商売は住んでいる家と店を兼ねていたので、いつも家に両親はいましたが、仕事が忙しく、あまりかまってもらった記憶、父親とキャッチボールなど、の記憶はありません。

毎日365日働いている両親の姿、この姿が私の両親のイメージであり、仕事は365日働くと言うのがいつの間にか、私の中の普通になっていました。

そんな忙しい両親には、申し訳なかったのですが、私は小さい頃からドンくさいくせに無茶ばかりして、しょっちゅう怪我ばかりしていました。

行きつけの外科医の先生は、キズに溜まった膿を出すためにメスをいれるのも、縫合するのも麻酔なしでおこなう人で、メスを持ち「痛くないからな」と、どう考えても嘘と分かる言葉を私にかけた不気味な笑顔と、そのメスの光沢は今でも忘れる事はありません。

想像できますか?保育園児に麻酔なしでケガにメスを入れる。
縫合する。
そして、その痛さ・・・

母親曰く「麻酔なしでキズにメスを入れてもアンタは泣かんかった。顔を真っ赤にして、歯をくいしばって我慢して、先生の『終わったで』の言葉を聞いて、涙をポロリと流す子やった。」
とても私の子供が同じ体験をする想像はできません。

ドンくさく、無茶をするのが好きで、失敗して痛い目にあっても懲りずに繰り返す子供でした。

でも、そんな痛みを耐えると、武勇伝の様に周りの人達から褒められる事は好きでした。
その時だけでも、自分の存在が目立つ!
子供ながらに「生きている実感が持てる。」と考えていたように思います。

幼いとは言え、一言で言うと「バカ」でした。

そんな私も成長し二十歳の時、就職活動を始めました。

この頃には、「就職氷河期」と言う言葉が世間で定着し、もちろん私も就職難。
そんな中、地元私鉄の営業に内定、しかも倍率は70倍、周囲は驚き、専門学校の先生方、両親共々大喜び!

しかし、私はシックリいきません。
「ん~何かが違う。」もちろん、その時は何が違うか分からぬまま、家族の大反対にも屈することなく内定を辞退しました。

しかし、専門学校の先生方は、「君が違うと感じたらやめたらいいよ。就職してからすぐに辞められる方が、学校としても迷惑かかるしね。それに、君は心配してないよ。大丈夫」と言って頂きました。

ドンくさいくせに無茶しました。

しかし、すぐに採用試験を受ける会社を、藤井先生から進めて頂きました。

そう、リッツ・カールトンです。

しかも、オープニングスタッフとして、

その後、一か月もしないうちに、なんと!リッツ・カールトンに内定をいただきました。

実はこの頃、私は専門学校の旅行科に通っていたため、リッツ・カールトンと言うホテルについては、高級ホテルとしか認識しておらず。内定をいただいた次の日にホテル学科のクラスに行き、ホテル科の友達に「なぁ~、オレ、リッツ・カールトンとか言うホテルに内定もらったけど、みんな知ってる?知らんわな~、日本には一軒もないし。」と言って、ホテル科の生徒達にヒンシュクをかったのは、皆さんの想像に苦しくないと思います。

その時の私は、就職活動から解放された解放感と、実家から離れ一人暮らしと、実力主義とイメージを持っていた外資系の会社で働くことで、胸がいっぱいになっていました。
「よぉ~し!実力を出して!出して!出世しまくるぞ!待ってろよ!リッツ・カールトン!」

若かったとは言え、一言で言うと「バカ」でした。

そんな期待とは裏腹に、毎日、叱られる日々、

叱られて、叱られて、叱られて・・・

いつの間にか自信満々から、自信喪失。

ドンくさいのに、仕事もできないのに無茶して叱られて、痛い目みて、少しも子供のころから治っていなかったのです。

そんな、私を見て「おもしろいやつだ。」と思ってくださった先輩、上司のおかげで、一つずつ仕事を覚え、気が付けば一年が経ち、後輩ができた頃には、後輩に仕事を教える立場になりました。

後輩ができた事が、ゆくゆく私のクレドコンサルタント人生の土台を作っていたことも気づかずに・・・

当時の職場では、新入社員、新人バイトの面倒は、次に若い社員が面倒をみる。と言うのが職場の暗黙のルールでした。
つまり、現場での新人教育は全て私の仕事だったのです。

ホテルの専門学校から来るアルバイト達は、3か月単位で入れ替えおこなわれ、一年で教育したアルバイトだけでも多い時には、50人近くはいたのではないでしょうか。

しかし、アルバイトと言えども、お客様の前に立てばリッツのスタッフとして恥ずかしくないように教育しなければなりません。

この時に私の著書「社会人として大切なことはすべてリッツ・カールトンで学んだ」にも書いていますが、新人スタッフにマニュアルを作るってもらうスキルを身につけ、リッツのクレドを浸透させる為に必要な焦点を身につけられたのだと思います。

教育されているだけでなく、教育する事によりクレドを学んだと言っても過言ではありません。

そして、なにより新人に対してクレド教育の数をこなした事が、後の自信につながりました。

「オレはリッツでクレド経験を積み、どこでもやっていける。どこの職場でも結果をだせる。

入社から4年目、リッツでクレドにより教育され、いつの間にかクレドを使い教育をしているうちに、入社時に似た自信が出てきました。

クレドで教育した後輩たちが優秀なスタッフに育ち、しかも私を慕ってくれたのですから。

この時点では、リッツを退社し、クレドを信じれば、どんな職場でも自分は通用する。
この時点では、クレドを信じるがゆえに、リッツを退社してからの職場で孤独になり、その苦しさに顔をゆがめる毎日を送ることになるとは・・・想像もつきませんでした。
世間知らずの若者・・・いやいや リッツの中の蛙(かわず)とでも言いましょうか・・・。

そして、リッツを去る決心をします。

もっと、自分を試してみたい。

「リッツの看板を外し、どん底からスタートしてみたい。オレならやれる!」

2か月後、どん底を経験していました。

やっぱり、「バカ」でした。

リッツ以外のホテルに派遣社員として働きだし、その会社の社長や料理長からは、

「清水君、リッツで修業したのか、そうか、うちのホテルをもっと良いホテルに成長させてくれ。」

と、言われ嬉しくなって調子に乗り、職場を変えようとしたら、職場の他のスタッフから総スカンをくらいました。

話も聞いてもらえません。

「なんでだ?オレが言っている事は正しい事で、間違っているのは他のスタッフなのに。」

この時は、まだ本当の意味でのクレド教育を理解していなかったのです。
私も大きな間違いをしている事に気付かなかったのです。

若かったとは言え、一言で言うと「バカ」でした。

その後、クレドを持つホテルでも働きました。

案の定、総支配人、料飲支配人から声をかけていただき「清水君、リッツ大阪のオープニングスタッフだったんだって、うちもスタッフを鍛えてあげてくれよ。」

「わかりました。」二つ返事です。

「クレドがあるなら問題ない。今度こそ実力を発揮できる。」と、そう思ったのです。

結果、ひとつめのホテルほどではありませんが、「変なやつ」と言う烙印をおされ、結果をだせませんでした。

その時、私が考えたのが、「クレドはリッツだから機能する。」

もう、クレド、クレドと意識しないでおこう。
そう、思いました。

今振り返れば、「わかってなかったな。」とつくづく思います。

若かったとは言え、様々な判断をする基準が私の中で、できていなかったために、クレドはもういい!こんな、不愉快な思いばかりするのであれば、もう、クレドなんて考えないでおこう。と、自分の中で一度クレドを封印したのです。

しかし、その後リッツの経験を活かして店の売り上げを著しく上げた事もありました。
少人数の店舗です。
私の思うように店を動かし、お客様に満足していただき、売り上げを上げる事に成功したのです。
クレドは作らなかったのですが、自身の中にクレドを持ち、職場の仲間に語り掛ける事で結果がでたのです。

「やっぱ、オレできるやん。オレの言った通りにしたら結果はでる。クレドは絶対に効果がある。」

また、悪い癖がでてきまた。

若かったとは言え、一言で言うと「バカ」でした。

実際、売上の悪い店舗に入り、いちじるしく売上を上げる経験を3店舗で経験した私は、コンサルタントと言いう仕事に興味を持ち始めました。

そして、一番の大きな失敗をしに名古屋のとある会社に店長候補として入ったのです。

そこでは、今までの総決算か?と思えるほど、うまくいきませんでした。
なにをやっても裏目にでる。

クレドの話どころか、総スカン、仕事じたいさせてもらえない。
挙句の果てはセクハラ疑惑をでっち上げられ、社長に呼ばれ尋問されました。
誤解だと言う事は、後ほど晴れましたが・・・

なんで、こんなめに会うんだ!
オレがなにをした!
店をよくしようとして、会社の利益を上げようとして、なんで、こんなめにあるんだ!
人のいない公園で思わず叫んだこともありました。

その時、決心したんです。

独立しよう。と、

当時、貯えはありません。
でも、人生を変えようと決断したんです。
覚悟したんです。

そしたら、その覚悟に賛同してくれる仲間が集まり独立できたんです。
大工、左官屋、電機屋、デザイナー、オープン2日前には、人海戦術ですよ。近所の大学の建築学科の学生が13人、手伝いにきてくれました。

そして、2005年11月1日にバスティアン クントラーリをオープンさせる事ができました。

小さい頃からドンくさいくせに無茶ばかりして、しょっちゅう怪我ばかりの私がやりました!

これで、自分の信じる道を進める。
これで、自分の信じるクレドを実践できる。
しかも、自分の店で!

もちろん、店をオープンして様々な失敗、痛い目を経験しました。
自分が作ったクレドの通り行動した結果で痛い目、苦労をした事もありましたが、後悔したことはありません。
かえって自分の自信になりました。

そんなある日、思ったんです。

ドンくさいくせに無茶ばかりして、しょっちゅう怪我ばかりしているバカな私でも、世の中に何かメッセージを発信できるのではないか?
今までの経験を活かし、世の中のお役に立てるのではないか?
人に勇気を与えたり、夢の実現のお手伝いをする方法があるのではないか?

そこで、執筆を始めたんです。

貯えなしに店をオープンさせた経験があるので、「出版くらいできるんじゃない?」と思いました。

さすがに、若かったとは言えませんが、一言で言うと「バカ」でした。

しか~し、執筆を始めて一年後、出版させていただける出版社が決まり、さらにその一年後、出版という夢をかなえる事ができました!

やった~!
やったった~!
世界のみんなありがとう!

この時、ようやく人生ではじめて、人生に起きたすべての出来事に感謝できましたね。
だって、修業時代の辛い思いでも、独立前にした苦い経験も、独立して苦労した経験も、本のネタにする事ができたのですから、

そこからは、止まりません。

「そうだ!やっぱりクレドだ!」
そこで、私のビジョンとミッションを決めました。

・ビジョン:クレドを広めることで、私のような中小零細企業を元気にする。それにより、日本経済を元気にする。

・ミッション:従業員教育を中心に経営に悩む経営者に、クレド導入によって組織強化を実現してもらいます。

そのために、私のように小規模店、10人以下の職場で使えるクレド導入プログラムを開発し、クレドを日本中、1店舗、1社でも多く広める。ことを決意しました。

そ・し・て、出来上がりました!

私の数々の失敗と成功をもとに、10名以下の小規模な職場で使えるクレド導入のマニュアルです。
もちろんこれからどんどん進化させていきますが、一日も早く、一社でも多く、一店舗でも多く、クレドを広める。

実際、マニュアルを導入してくださった小店舗さん、誰もがご存じの一部上場企業の人材育成担当の副工場長さん、

「ビジョンの大切さ、力がわかった。マニュアルの実践で、これからは人のビジョン、ミッションを引き出す事もできるようになったし、多くの人の夢のお手伝いができる自身がつきました。ありがとう。」と言っていただいたマッサージのお店のオーナーさん。

「組織に新な変化を起こす起爆剤だ。」
と言っていただき、300人が働く工場での部署単位でのマニュアル導入から踏み切っていただいた人材育成担当の副工場長さん。

やりました!

小さい頃からドンくさいくせに無茶ばかりして、しょっちゅう怪我ばかりしていたバカな私だからこそできた!

今では、そんな自分を褒めてあげたいと思えます。
だって、私の作ったマニュアルが、世の中の人の役に立ったのですから。
喜ぶ笑顔が見たい。喜ぶ声がききたい。
今では、そんな笑顔や声が私を動かす原動力になっています。

幼少の頃のアノ痛い想いでの中で培われた精神力。

そして、大切な事を気づかせてくれたリッツ卒業後の総スカンの経験。

みんな、みんな、ありがとう!

そして、もっともっと世の中の役に立ちたいと思います。

長文でしたが、ご覧いただき、ありがとうございます。